読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ヘルログ

死と地獄の大君、ヘルデスタイクーンについてもっと詳しくなるためのブログです。

継続するということ

継続は力なりと言います。

継続することは素晴らしいことです。何事も続けていれば、確実に何らかの点で続けていない人を上回ることが出来ます。

シンプルな言葉には、それだけの意味があり、それだけの理由があると思います。

継続は力なり。

簡単なことです。何も難しいことはありません。継続することの大切さを説いているだけの、ごく簡単な六文字の文章です。

では何故このシンプルな言葉が今日もなお語り継がれているのか。シンプルなことは、言い換えれば単純なことです。単純だからといって、簡単なことというわけではありません。そこが肝になっていると思います。簡単に見えることと、実際にやってみてどうか、それはまったく別です。

継続は力なり。

人間は愚かです。人間は道具を使う唯一の動物だと言いますが、それは楽をしようと言う思い、怠惰の感情があって、初めて人間は道具を手にしたのだと思います。今の社会があるのは、人間のそういった負の面があってこそといえるでしょう。

つまり、人間は怠惰を愛しています。人間の本質であり、本能の部分です。道具を手にする以前から、人間は怠惰を求めていたのですから。

継続は力なり。

この単純なことを実行出来ないのは、人間が怠惰であるからです。だからこそ、この単純な言葉を言葉通りに行える人間は、力を得ることが出来る。力を得るのに簡単な道のりなどありません。継続することの難しさは、改めてここで述べる必要も無いでしょう。僕もそろそろ飽きてきた頃ですが、力が欲しいのでがんばっています。

好みが変わるということ

人間は変化する生き物です。自分の過去の発言に矛盾があった場合、常に新しい発言が正しい、と断言した思想家も居ます。その通りだと思います。

さて、変化と言うのは思想だけではなく、好みにも作用します。昔は食べられたものが食べられなくなった、逆に嫌いだったものが得意になった、などです。人間の好みは何年周期かで変わる、と言う噂もあります。

本題です。

昔触れた作品に、時間が経ってから改めて触れると、得られる味わいの変化に気づく、という経験があるかと思います。学生の頃狂ったように聞いていた音楽であったり、10年前に熱心に読んでいた本であったり、まあその辺はもういいです。本題に入ります。

私はあずまんが大王、という漫画が好きです。昔延々と読んでいた記憶があります。それこそ何度も読み返しました。

当時好きだったのは大阪、榊さんでした。今は全然違います。今好きなのは神楽、暦、トモ・タキノあたりです。好みが変わるということです。他にもあります。昔は柊巴派でしたが、今は柊高嶺派です。大体好みがどう変わったのかお察しいただけるかと思います。好みが変わるということは、自分がどう変わったのかを見つめなおす材料でもあると思います。思うだけですので、何故変わったのかはここでは分析しません。以上です。

必要なものをすべて見る

読むべき小説、見ておくべき映画、絶対に○○すべき作品、という言葉が世の中に溢れています。

大体は傑作と呼ばれる作品がこう表現されます。薦める人がいるのですから、少なくともその作品の面白さはその人が担保してくれています。その面白さが自分に合うかどうかは別ですが、極端なハズレを引くことはあまりない、と言えるでしょう。親切です。

一方で、面白さ以外の面から作品を推す人も居ます。映画で言えば「この映画はカメラワークが素晴らしい」「演出が見事」など。本や漫画で言えば「伏線の張り方が見事」「表現が凄い」等でしょうか。よく言われます。

言われた全てを見ることは不可能です。絶対に見ておきたい100の映画とか、死ぬまでに読みたい100の本とか言われても、大体の人はその中から自分が興味を持った作品を拾って触れることでしょう。かつてとある大学のSF研では、有名なSF作品は全て読んだ前提で会話がなされていた、という話がありますが、普通はそこまで辿り着くことは出来ません。

必要なものをすべて見る必要があるとして、取捨選択を行う場合、どうやって見るもの、見ないものを決めるのか。言い換えれば、必要の中でより必要なものを選別するか、ということになります。基準はあくまでその人の中にあるので、ここから先の選択は他の人の手が入る余地がありません。

見たいものを見ましょう、と言うことです。

目的の達成

ヘルデスタイクーンブログに隠されたもう一つの意味についてお話しましょう。

我がヘルデスタイクーンブログは、管理人ヘルデスタイクーンによるブログです。

管理人ヘルデスタイクーンとは、死と地獄の大君であり、とある人物のブログを荒らすために生まれた闇の使者であることは、先日お伝えしたことと思います。

そのブログですが、ヘルデスタイクーンはコメントを削除され、コメントブロックを受けました。事実上ブログを荒らすことが出来なくなってしまったわけです。

どうすればブログを荒らすことが出来るのかを考えていました。そのためには、何故荒らしはブログを荒らすのか、その部分を分析することが肝要です。

ブログを荒らすことは示威行為に等しいです。また、それによってブログの主の評判を貶めたり、人格を否定したり、社会的に制裁を受けさせたり、そういった攻撃を加えるために、荒らしはブログを荒らしているのだと思います。

上記を簡略化してみましょう。荒らしが何故ブログを荒らすのか。それは、ブログの主を負けさせたいからです。敗北させるため、勝利するために荒らしているのです。

となれば結論は一つ。僕もとある人物のブログに勝てば良い、ということです。

では、どうすれば勝てるのでしょうか。どう勝てば良いのでしょうか。

日本にはこのような言葉があります。継続は力なり。この言葉を使いましょう。即ち、とある人物のブログよりも更新を継続すれば、継続は力なので、継続されたブログはとある人物のブログよりも力があることになります。力とは強さです。強さとは勝利に繋がります。よって、継続=勝利。一日でも長く続けることが出来れば、それは勝利と呼んで構わないでしょう。

はたして、このブログは勝利しました。三日坊主とはよく言ったもので、とある人物のブログは更新が滞り、ネタが尽き、モチベーションも尽きました。

目的は達成され、ヘルデスタイクーンのブログは解放されました。勝利を求めねばならないと言う勝利至上主義のブログは終わり、自由を勝ち取ったのです。

このブログは自由になります。

キャラクターが好きであるということ

最近というわけではありませんが、今はどんな作品を見ても大抵キャラクターと呼ばれるものが存在し、人々は自分の好きなキャラクターがいるかいないか、そういうところでその作品を判断したりします。

多分売る側としても、魅力あるキャラクターを作っておいて損はないと思います。一人でも好きと思ってもらえるキャラクターが居れば、その作品を見たり、買ったりしてくれる人が増えるわけです。

もちろん僕にも好きなキャラクターは居ますし、好きなキャラクター目当てで作品を見たりすることは多いです。

ですが、一つ思うことがあります。

人には好みが存在します。当然ですが、好みがある以上、好きなキャラクターが似通うことは少なくないでしょう。例えば眼鏡が好きなら色々な作品の中でも眼鏡をかけたキャラクターがお気に入りになることでしょうし、例えばお姉さんっぽいキャラが好きならお姉さんっぽいキャラクターがお気に入りになることでしょう。

問題はここからです。キャラクターが可愛い、キャラクターが好きでたまらない。分かります。が、果たして本当にそのキャラクターが好きですか?

大きなお世話です。別にその人がどんなキャラを好きになっても僕がとやかく言う権利はありません。ただ、聞いているとキャラクターそのものが好きなわけではなく、キャラクターに付随する好みの要素が好きなのであって、極論を言えば別にそのキャラクターではなくても良いのでは?と思ってしまうことや、思ってしまう人を見ることがあります。

人の好みは千差万別ですし、人の欲求も千差万別だと思います。ですが、その扱いをするのであれば、別にそのキャラクターである必要は無いのでは?と考えさせられることが、最近増えている気がします。もちろん、僕の勘違いや被害妄想である可能性は高いです。

そのキャラクターが好きな理由の中に、そのキャラクターである必要性、そのキャラクターのバックボーン、その他、他の似たような要素を備えたキャラクターとの違い、他のキャラクターと比べた時の独自性、そういったものをきちんと含んでこそ、初めてそのキャラクターのことが好きである、と言えるでしょうし、そうでなくてはならないのでは無いでしょうか。

少なくとも僕は、似たようなキャラに安易に性癖をぶつけることがないよう気をつけています。少なくとも僕は、ですが。

忘れるということ

ここ数日分の記事は、ネタが浮かんだ際に一気に書き溜めておいたものであり、適当な時間に自動公開されるようにしておいたものです。

そんなことを三日四日続けていました。いつの分まで書き溜められているのか、忘れていました。世の中の便利なことは人間の能力の欠如を生みます。教訓として覚えておいてください。間に合いませんでした。

魔法について

魔法は便利なものだと言われています。

実際、あれば便利だと思います。創作の中に登場する、リスクよりもリターンの方が大きく設定されているような類であれば、の話ですが。法が魔法を否定している以上、何をやっても罪に問われないという点で、リターンが破格と言えるかもしれません。

さて、魔法の便利なところについて(あくまで創作の中の事象について)少し考察してみました。

考えられることとして、魔法はリソースを使いません。

勿論、魔法は魔力を使う、魔法文字を使う、魔法陣を使う、そもそも魔法には何らかの代償が伴っている、という話もあるかもしれません。その通りです。仮に魔力と言うものが存在したとして、炎を出すのに使う魔力がその人の生涯を終えてしまうほどの量だったとすれば、そもそも魔法は便利なものではなくなります。あるいは最後の切り札として使われることでしょう。ですので、ここではあくまで一般的、普遍的な魔法について考えることにしたいのです。

炎を出すにしても火種や燃焼物を用いる必要がない、水を、氷を、雷を……と、魔法はあらゆる現象に対して発生条件を担保してやる必要が無いのです。根抵当権です。よくわかりませんが。

分からなくなっていたので、仮に魔力、魔法文字、魔法陣を使う魔法使いの戦いを仮定してみましょう。

魔法使いは戦いに臨みます。仮に剣士が相手だとしましょう。剣士は日々の鍛錬として肉体を鍛え、技を磨き、剣の手入れをします。メンテナンスには費用がかかることでしょう。そうやって準備した剣を携え、剣士は決戦の地へとやってきました。

魔法使いはどうでしょうか。魔法を覚えるところから始まるかもしれません。魔法の制御を覚え、精神力を磨き、杖の手入れくらいするかもしれません。メンテナンスには費用がかかることでしょう。そうやって準備した杖を携え、魔法使いは決戦の地へとやってきました。

この勝敗にはその人の価値観が反映されることと思いまが、今回の場合は至ってシンプルに、僕の判断で魔法使いが勝利するとします。では、戦いの中身を見ていきましょう。

剣士は練達ではありますが、剣士にできることは剣で相手を斬りつける、あるいは突き刺す、この2つになります。一方で、魔法使いは魔法が使えるので、炎を出したり、風を巻き起こしたり、もしかすると瞬間移動で剣士を上空3000メートルまで飛ばしてしまうかもしれません。魔法使いは魔法が使えるので、魔法が使えない人よりは多彩な事ができます。一つ目、手札の利点です。

剣士が炎を出そうとすれば、炎を出す準備が必要となります。松明を持つ、場に油を敷いておく、あるいは火矢で援護してくれる仲間を伏せておくことだって出来るかもしれません。何にせよ、剣士が物理法則に従って炎を出すには、物理法則に従った準備が必要です。対する魔法使いは、魔法使いなので、魔法で炎を出す。以上。これで終わりになります。二つ目、労力の利点です。

労力の利点を乗り越えて炎を出しに来た剣士が居たとしても、火炎放射器を手にしていたのでは「今から炎を出すぞ!」とすぐに分かってしまいます。即ち、手が読まれてしまうのです。勿論、そうやって相手を油断ないし身構えさせ、他に用意した切り札で敵を倒すというのは立派な戦術です。しかし、魔法使いだって同じことができます。魔法が使えないふりをして、いざという時魔法を使って相手を倒せばいいのです。三つ目、実際には一つ目と同質ですが、これは切り札の利点とでも呼んでおきましょう。あまりいい表現が見つかりませんでした。修正するかもしれません。

 

書いているうちの段々わからなくなってきたのでまとめます。まとめと上の文章の間に矛盾を感じた場合、まとめが正しいものと思ってください。

手札の利点、相手よりもやれる動作が多いこと。

労力の利点、動作にかかるリソースが相手よりも少ないこと。

切り札の利点、出来る動作の数が相手には分からないため、隠し玉を用意しやすいこと。

相手よりもできる事が多く、それを相手に悟らさせず、しかも相手よりも多くの選択肢を持つ。難しい対応を相手に一方的に押し付ける事ができる。魔法が便利な原因は、このあたりなのかと思います。

勿論、今回は惜しくも負けてしまいましたが、剣士だって勝ち目がないわけではありません。接近戦になれば、魔法使いは杖を振るよりも先に腕を切り落とされることになるでしょう。首かもしれません。ですが、対応の難しさという点では、魔法使いのほうに軍配があがると思います。

長々と書いてきました。本来ならばこれはこの結論から魔法をお金に、魔法使いをお金持ちに置き換えて、お金はないよりもあったほうが色々なことができるからいいよね、無くても幸せっていう人もいるけどあるに越したことはないんじゃない?という雑な論理展開をする予定でしたが、剣士が随分と頑張ってくれたお陰で剣士に対応する語が見つからなくなったので比喩表現に使うことが難しくなったため、魔法、サイコー!という話で終わります。