ヘルログ

死と地獄の大君、ヘルデスタイクーンについてもっと詳しくなるためのブログです。

電子タバコを吸うということ

僕自身はタバコを吸いませんし、タバコがあまり好きではありません。タバコを吸わないけどタバコが好きという人がいるような書き方ですが、いるかもしれないものには気を使っておいて損はないでしょう。アレです、パスカルの賭け。

あまり好きではない、というのは、まあ別に許せないこともないということです。好き、ふつう、嫌いでいえば嫌いよりの普通、中の下、条件付きで許容範囲、そんなところです。別に自分では吸いませんが、人が好きに吸ってる分には止めるつもりもないですし、友人が吸うのくらいは全然気になりません。別に友人と24時間一緒に暮らしているわけでもないですし。愛煙家と24時間暮らしたら変わるかもしれませんが、今は別に関係の無い話です。

タバコにはにおいが付き物です。あと、タスポとかいう間抜けな響きのカードが必要だったり、健康上のリスクを読ませられたりします。僕はそういったものを経ずにタバコが吸ってみたい!と上前をはねるつもりではなく、眠気の覚めるパイポをそこそこ長い期間愛用していて、その代わりにならんかな?と思ったり、単にちょっと面白そうだったりで、電子タバコのスターターキットを購入してみました。それが先日の事になります。

吸ってみました。水蒸気です。ニコチンもタールも無いので、部屋で吸ってみました。思ったほど熱くも無ければ、思ったほど匂いもしない。メンソール系のリキッド(初心者向けと書いてあった)なのに、喉に強い刺激が来るわけでもない。パイポの代わりにはなりませんでしたが、吸い方になれてくるとああ、なるほどね、という具合に納得できるまでになりました。

二日後の話です。部屋に入ってみると、妙に甘ったるいにおいがする。別にお菓子を開けっ放しにしていたわけではありません。考えてみたところ、思い当たるのは例の水蒸気の香りでした。甘めのメンソールとはつまり香料であり、水蒸気となって飛散した香料がどことなく、それでいてしっかりと部屋の何かに乗り移っているのです。

これは困ったことになりました。今はまだ耐えられますが、これ以上続ければ確実に部屋はスイートルームになるでしょう。色々考えた結果、窓を開けて外に煙を吹き出す、ベランダで吸う、家の外で吸うなど、喫煙に苦心する全国の愛煙家のような結論に至りました。なんだかなあと思ったので、ファブリーズもいっぱい買ってこようと思います。

日記を書くということ

知り合いや家族に、日記をつけている人がいます。僕はつけていません。つけていたら多分ブログを書いてないし、つけていればブログだって書けると思います。

日々の出来事というのは、あまりにも刺激が少ないということです。

たとえば今日のことを日記にしてみましょう。今日といっても今日ではなく、これを書いているのは21日なので時系列的には今日ではありませんが、今日です。そういう融通が利くのもブログのいいところでしょう。日記は今日の出来事を書くものです。

今日、僕はこのブログの存在を思い出しました。前々から思い出していたのですが、ちょうど書きたい事もあるし書くか、というところまで至ったのが今日です。あとはそうですね、昼はザルうどんを食べました。夜は豆腐と餃子を食べました。暑かったので涼しいものが良かったんです。以上終わり。食事だけしか書く事の無い、囚人の日報みたいになってしまいます。

よく本を読むと、作家さんがあとがきに苦心する様を見かけます。諸々あってページ数が決まるのは置いておくとして、刊行ペースとあとがきのページ数、たとえば三ヶ月ごとに原稿用紙4枚のあとがきを書けと言われたら、多分僕も困ります。三ヶ月に一度必ず面白い事が起こるわけでもなし、ちょっと面白い事があっても別にメモを取っておくでもなし、そもそも近況報告ってどんな報告をすればいいのか……苦労は尽きません。

日記を書く人とは、一体どんな内容を毎日書いているのでしょうか。気になって仕方がありませんが、人の日記を読む事はマナー違反とされます。アンネ・フランクには憐憫の情を禁じえません。

 

一年間なにをやっていたのかということ

至極当然の疑問だと思います。そこで、ブログを書いた後で、思い出に残っていることをいくつかピックアップし、今後への糧としようと思います。恐らくはこの中の何かについて詳しく書くかもしれないという事です。

 

・かいわれとか育てていた

去年の山場だったかもしれません。かいわれ大根の育成と収穫に関わっていました。

一ヶ月くらいやっていました。

 

・友人の同人誌に寄稿しようとして失敗した

去年の山場だったかもしれません。同人誌に寄せる文章を書いていました。

一ヶ月くらいやったのですが、駄目でした。

 

・人と関わっていた

ざっくりした話ではありますが、遊んだりしていました。

大体の話がこれになってしまうのでは?という懸念はあると思います。その通りと考えてもらって結構です。弁明はしません。

 

・遠い地の友人と会ったりした

一年ぶりに会ったり二年ぶりに会ったりすると、会うまでは顔が思い出せないのに、いざあってみると顔をすんなりと思い出せる、というか記憶が受け入れるという経験はあると思います。そんな感じです。

 

・部屋が妙に甘ったるいにおいになっていた

これは電子タバコをはじめてみたからです。ニコチン無しの水蒸気吸う奴ですね。甘めのメンソールを調子に乗って吸っていたら部屋が甘くなりました。困ったものです。

 

・意外と思い出せることが無かった

別に僕の人生の密度が低いわけではないと考えています。ですが、日々生きていく上で一年後にまで鮮明に記憶が残るほどの出来事というのは、思っているよりも少ないのだなと実感しました。

超越を失ったということ

継続は力なり、と叫んでから一年が経過しました。鯖を読みました。一年以上です。一年以上が経過しました。

久しぶりだったのでヘルログを読み返して見ました。結構ちゃんとしたことを書いているな、と関心する半面、生と天国の将軍ヘヴンリヴィングショーグンに目をつけられないとか書いてるのでちゃんとしてないな、とも思いました。人間の持つ二面性の象徴だと思います。

特に何か理由があってブログをやめたわけではなく、むしろ理由がなかったのでブログをやめていました。やめていたわけではありません。単純に飽きていたのです。書く内容もなくなってしまったし。

しかし、一年立つと内容というものもいくつか候補が出てきます。人間は忘れる生き物です。その人間が思い出せるほどに記憶に残る出来事は、それほど需要な出来事であったと言えるでしょう。一年の間に経験した、思ったことを思い出して書かれたブログは、特に強く主張したいなにかと結びついている可能性があります。というわけで、いくつかまた、思いつく限りブログを書こうと思います。

 

何日続くかは後世の歴史家が判断してくれることでしょう。

継続するということ

継続は力なりと言います。

継続することは素晴らしいことです。何事も続けていれば、確実に何らかの点で続けていない人を上回ることが出来ます。

シンプルな言葉には、それだけの意味があり、それだけの理由があると思います。

継続は力なり。

簡単なことです。何も難しいことはありません。継続することの大切さを説いているだけの、ごく簡単な六文字の文章です。

では何故このシンプルな言葉が今日もなお語り継がれているのか。シンプルなことは、言い換えれば単純なことです。単純だからといって、簡単なことというわけではありません。そこが肝になっていると思います。簡単に見えることと、実際にやってみてどうか、それはまったく別です。

継続は力なり。

人間は愚かです。人間は道具を使う唯一の動物だと言いますが、それは楽をしようと言う思い、怠惰の感情があって、初めて人間は道具を手にしたのだと思います。今の社会があるのは、人間のそういった負の面があってこそといえるでしょう。

つまり、人間は怠惰を愛しています。人間の本質であり、本能の部分です。道具を手にする以前から、人間は怠惰を求めていたのですから。

継続は力なり。

この単純なことを実行出来ないのは、人間が怠惰であるからです。だからこそ、この単純な言葉を言葉通りに行える人間は、力を得ることが出来る。力を得るのに簡単な道のりなどありません。継続することの難しさは、改めてここで述べる必要も無いでしょう。僕もそろそろ飽きてきた頃ですが、力が欲しいのでがんばっています。

好みが変わるということ

人間は変化する生き物です。自分の過去の発言に矛盾があった場合、常に新しい発言が正しい、と断言した思想家も居ます。その通りだと思います。

さて、変化と言うのは思想だけではなく、好みにも作用します。昔は食べられたものが食べられなくなった、逆に嫌いだったものが得意になった、などです。人間の好みは何年周期かで変わる、と言う噂もあります。

本題です。

昔触れた作品に、時間が経ってから改めて触れると、得られる味わいの変化に気づく、という経験があるかと思います。学生の頃狂ったように聞いていた音楽であったり、10年前に熱心に読んでいた本であったり、まあその辺はもういいです。本題に入ります。

私はあずまんが大王、という漫画が好きです。昔延々と読んでいた記憶があります。それこそ何度も読み返しました。

当時好きだったのは大阪、榊さんでした。今は全然違います。今好きなのは神楽、暦、トモ・タキノあたりです。好みが変わるということです。他にもあります。昔は柊巴派でしたが、今は柊高嶺派です。大体好みがどう変わったのかお察しいただけるかと思います。好みが変わるということは、自分がどう変わったのかを見つめなおす材料でもあると思います。思うだけですので、何故変わったのかはここでは分析しません。以上です。

必要なものをすべて見る

読むべき小説、見ておくべき映画、絶対に○○すべき作品、という言葉が世の中に溢れています。

大体は傑作と呼ばれる作品がこう表現されます。薦める人がいるのですから、少なくともその作品の面白さはその人が担保してくれています。その面白さが自分に合うかどうかは別ですが、極端なハズレを引くことはあまりない、と言えるでしょう。親切です。

一方で、面白さ以外の面から作品を推す人も居ます。映画で言えば「この映画はカメラワークが素晴らしい」「演出が見事」など。本や漫画で言えば「伏線の張り方が見事」「表現が凄い」等でしょうか。よく言われます。

言われた全てを見ることは不可能です。絶対に見ておきたい100の映画とか、死ぬまでに読みたい100の本とか言われても、大体の人はその中から自分が興味を持った作品を拾って触れることでしょう。かつてとある大学のSF研では、有名なSF作品は全て読んだ前提で会話がなされていた、という話がありますが、普通はそこまで辿り着くことは出来ません。

必要なものをすべて見る必要があるとして、取捨選択を行う場合、どうやって見るもの、見ないものを決めるのか。言い換えれば、必要の中でより必要なものを選別するか、ということになります。基準はあくまでその人の中にあるので、ここから先の選択は他の人の手が入る余地がありません。

見たいものを見ましょう、と言うことです。