ヘルログ

死と地獄の大君、ヘルデスタイクーンについてもっと詳しくなるためのブログです。

昔は確かに超人だったということ

下書きに残っていた話題です。一年前に書こうとしてすっかり忘れていたものですね。忘れていたのだから大したことはないだろうと思われるかもしれませんが、そのままにしておくには忍びない話だったので改めて書いておきます。なお、メモに残された文章は以下の一文です。

 

・超人だった友人の話 二人で話すと超人であることがわかる

 

超人というのは、独自の解釈ですが、確固たる個人で、人間関係とか瑣末なものを超えた人間です。スーパーマンですね。

何故突然そんな超人の話なのかというと、これは超人だった存在が超越を失い、超人ではなくなってしまった話から来ています。友人のブログにそんな内容のものがありました。一年前の話なので、見た記事も一年前の記事です。

 

嫌いな物がありすぎる話 - 生きている

 

今の世の中というと主語が大きすぎるかもしれません。しかし、確かにそういうことはあると思っています。思想の平均化、一般化、並列化が起こりやすい構造です。

結局は一般化されてしまうことが嫌いなんだと思います。個人は個人であって欲しいし、全員同じステータスにならないで欲しい。そういうことだと思います。

その人にしか出来ないことを求めています。その人以外にも出来ることもまあいいでしょう。ただ、その人じゃなくて誰がやっても同じことの比率が高まってしまうのは、哀しいと思います。

折角海に来たのに、海岸に行かないなんてもったいないよ。折角なんだからさ、という感じです。

 

大人ではなかったこと

大人というのは、怒りません。大人というのは、泣きません。イメージの文脈として語られる大人という評価は、大抵の場合感情を極度なまでに抑圧することに長けた存在です。世間ではそんな大人を誉めそやします。

何かあっても穏便に済まそうとする。欲はなく、決して怒らない。そういうものに私はなりたいと言った人も居ますが、私はそうではないと思っていました。思っていましたというのは、今この瞬間思いついたわけではなく、結構前から思い続けてきていたということです。

何故感情をあらわにしてはならないのか?人間が時として合理より非合理を選択する感情の生き物であることは各界の専門家たちがその可能性を広く認めています。損得の問題よりも誇りを取る者のなんと素晴らしいことか。フィクションの中の人気キャラクターは、えてしてそういった非合理的判断を下せる存在である事が多い(主観)と思います。残酷だけど理性的な理屈をうるせえー!!と跳ね除ける主人公とかはその最たるものですね。

フィクションなのだから許されるというのは確かにあります。しかし、現実世界を生きる中は、大人である事は己を殺すことと表裏一体でもあるのです。大人が大人の態度で臨まなければならない相手とは、大抵の場合同じ大人であるからです。片一方の大人が感情をあらわにし、理屈を無視するのに対し、もう片方の大人は己の感情を押し殺して対応しなければなりません。

明らかに不平等です。同じ大人なのであれば、同じように大人に振舞う必要があると思います。どちらか片方が大人の対応をする場合、どうしても貧乏くじを引くことになるのはそちらの側になってしまうからです。誰にだって大人として振舞わなくて良い権利はあるし、その回数に上限が定められているわけでもありません。見苦しいとかそういった外野からの意見はこの際考えないものとします。そこまで考える事が出来る人間の多くは大人なので、大人ではない態度をとらないからです。大人である事は世間体を気にするということでもあります。

例えば普段は理性的で温厚、いわゆる社会的な評価として大人な友人がいるとします。例えばその友人が、時折感情をあらわにしているのを見ると、安心します。死と地獄の大君である私のように、破壊と暴力の化身の如く振舞っている姿に、共感を覚えます。ああ、この人は普段は耐えているだけなんだ。心の底から、絶対善の聖人君子ではなかったのだ。同じ人間なのだ、と思えるからです。

 怒りの沸点が似ている相手とは仲良く出来ます。同じものを憎んでいるがゆえ、自らの嫌う存在のような振る舞いをしないからです。虫が嫌いな同士であれば、相手に虫の話をすることはありません。いい関係性だと思います。例え冗談であっても、怒る人は人間的に魅力的だと思います。

例えどんなに大人でも、人間なのだから感情があって欲しいと思います。それと同時に、どんなに人間だとしても、相手に大人を押し付けて感情だけで生きるのはやめて欲しいと思います。すべての人が、適度に大人になって欲しいと思います。 

 

この一年間何があったのかということ2

2です。1は去年書いたので、今回は当然2になるわけです。

このブログは恐らく、年に一度、一週間くらいだけ稼動するブログになることでしょう。そういう運用だって正しいわけです。正解が無いのも正解だからです。

そんなわけで、この一年間を振り返ってみようかと思います。思い出せるだけめぼしいものをリストアップします。 

 

・日記の話

 日記を書き始めました。今年の頭からです。昨日は書き忘れました。よく忘れるし、特に書くことも思いつかないので頑張って無理矢理書いてます。後から見た時にその日その日の出来事を思い出せるような中身ではないです。

 

・グミを食べている

 グミを食べています。去年の10月末くらいからグミにハマり、継続的に新しいものを見つけては買って食べてメモを残しています。現時点で30種ちょっと。

 

・映画を見た

映画、見ています。配信が多いです。最近の傑作は来るです。映画、面白いけど時間がかかるし、時間がかかるので前々から積んでた円盤はそのままになっています。困ったものです。

 

・特に無い

思ったより思い出せることが無く、どうしたものかと思いました。何ですかね。日々出来事に対する感動がなくなっているのかもしれません。大人になるのはいやだなと思いました。

 

日記に書く事がないということ

書く事が無いということを書くことはとても難しいだろうな、とすぐに思ったのですが、書いてみたら何とかなるかもしれないともすぐに思ったので筆を取りました。

先日見た番組で、ツイッターがブログと決定的にどこが違うのかという事について、タイトルをつける必要が無いことだ、だから気軽に書きやすい……と言っていました。

それは確かにその通りだな、と聞いた瞬間は思ったのですが、今となってはそうでもないな、と思っています。何故か?日記だってタイトルが必要ないからです。日記にタイトルをつける人はあまり居ないでしょう。一年放置していたので一人称を何にしていたか思い出せなかったので、今回は私でいきますが、私だってそうです。

今年の頭、日記を書くことにしました。まったく続きません。三日どころか次の日には忘れていて、二日分まとめて書きましたが、日記にそういうノルマ感があったのは絵日記まで十分だと思います。

日記、書く事が無いし、タイミングも難しいです。

例えば夜20時に書いたとします。寝る時間は0時、ここに4時間の空白が生じます。この間に起こった面白い出来事はしたためられることなく虚空へと消えてしまうのでしょうか。それはもったいないと思います。

例えば夜0時に書いたとします。寝る直前です。眠いので面倒だし忘れます。ちゃちゃっと書いて寝ちゃお、そうなって何の意味も無い文章をぽつぽつ埋めて終わりにしてしまいがちです。私がそうでした。

正解は無いのかもしれません。とかく最近の人は正解を欲しがりがちですが、正解が無いのもまた正解だと思います。だから日記に書く事が無いからといって、夕飯を記録するだけのつまらない囚人の手記みたいになるのは避けたいな、でも正解が無いな、という私の悩みも尽きることはありません。

電子タバコを吸うということ

僕自身はタバコを吸いませんし、タバコがあまり好きではありません。タバコを吸わないけどタバコが好きという人がいるような書き方ですが、いるかもしれないものには気を使っておいて損はないでしょう。アレです、パスカルの賭け。

あまり好きではない、というのは、まあ別に許せないこともないということです。好き、ふつう、嫌いでいえば嫌いよりの普通、中の下、条件付きで許容範囲、そんなところです。別に自分では吸いませんが、人が好きに吸ってる分には止めるつもりもないですし、友人が吸うのくらいは全然気になりません。別に友人と24時間一緒に暮らしているわけでもないですし。愛煙家と24時間暮らしたら変わるかもしれませんが、今は別に関係の無い話です。

タバコにはにおいが付き物です。あと、タスポとかいう間抜けな響きのカードが必要だったり、健康上のリスクを読ませられたりします。僕はそういったものを経ずにタバコが吸ってみたい!と上前をはねるつもりではなく、眠気の覚めるパイポをそこそこ長い期間愛用していて、その代わりにならんかな?と思ったり、単にちょっと面白そうだったりで、電子タバコのスターターキットを購入してみました。それが先日の事になります。

吸ってみました。水蒸気です。ニコチンもタールも無いので、部屋で吸ってみました。思ったほど熱くも無ければ、思ったほど匂いもしない。メンソール系のリキッド(初心者向けと書いてあった)なのに、喉に強い刺激が来るわけでもない。パイポの代わりにはなりませんでしたが、吸い方になれてくるとああ、なるほどね、という具合に納得できるまでになりました。

二日後の話です。部屋に入ってみると、妙に甘ったるいにおいがする。別にお菓子を開けっ放しにしていたわけではありません。考えてみたところ、思い当たるのは例の水蒸気の香りでした。甘めのメンソールとはつまり香料であり、水蒸気となって飛散した香料がどことなく、それでいてしっかりと部屋の何かに乗り移っているのです。

これは困ったことになりました。今はまだ耐えられますが、これ以上続ければ確実に部屋はスイートルームになるでしょう。色々考えた結果、窓を開けて外に煙を吹き出す、ベランダで吸う、家の外で吸うなど、喫煙に苦心する全国の愛煙家のような結論に至りました。なんだかなあと思ったので、ファブリーズもいっぱい買ってこようと思います。

日記を書くということ

知り合いや家族に、日記をつけている人がいます。僕はつけていません。つけていたら多分ブログを書いてないし、つけていればブログだって書けると思います。

日々の出来事というのは、あまりにも刺激が少ないということです。

たとえば今日のことを日記にしてみましょう。今日といっても今日ではなく、これを書いているのは21日なので時系列的には今日ではありませんが、今日です。そういう融通が利くのもブログのいいところでしょう。日記は今日の出来事を書くものです。

今日、僕はこのブログの存在を思い出しました。前々から思い出していたのですが、ちょうど書きたい事もあるし書くか、というところまで至ったのが今日です。あとはそうですね、昼はザルうどんを食べました。夜は豆腐と餃子を食べました。暑かったので涼しいものが良かったんです。以上終わり。食事だけしか書く事の無い、囚人の日報みたいになってしまいます。

よく本を読むと、作家さんがあとがきに苦心する様を見かけます。諸々あってページ数が決まるのは置いておくとして、刊行ペースとあとがきのページ数、たとえば三ヶ月ごとに原稿用紙4枚のあとがきを書けと言われたら、多分僕も困ります。三ヶ月に一度必ず面白い事が起こるわけでもなし、ちょっと面白い事があっても別にメモを取っておくでもなし、そもそも近況報告ってどんな報告をすればいいのか……苦労は尽きません。

日記を書く人とは、一体どんな内容を毎日書いているのでしょうか。気になって仕方がありませんが、人の日記を読む事はマナー違反とされます。アンネ・フランクには憐憫の情を禁じえません。

 

一年間なにをやっていたのかということ

至極当然の疑問だと思います。そこで、ブログを書いた後で、思い出に残っていることをいくつかピックアップし、今後への糧としようと思います。恐らくはこの中の何かについて詳しく書くかもしれないという事です。

 

・かいわれとか育てていた

去年の山場だったかもしれません。かいわれ大根の育成と収穫に関わっていました。

一ヶ月くらいやっていました。

 

・友人の同人誌に寄稿しようとして失敗した

去年の山場だったかもしれません。同人誌に寄せる文章を書いていました。

一ヶ月くらいやったのですが、駄目でした。

 

・人と関わっていた

ざっくりした話ではありますが、遊んだりしていました。

大体の話がこれになってしまうのでは?という懸念はあると思います。その通りと考えてもらって結構です。弁明はしません。

 

・遠い地の友人と会ったりした

一年ぶりに会ったり二年ぶりに会ったりすると、会うまでは顔が思い出せないのに、いざあってみると顔をすんなりと思い出せる、というか記憶が受け入れるという経験はあると思います。そんな感じです。

 

・部屋が妙に甘ったるいにおいになっていた

これは電子タバコをはじめてみたからです。ニコチン無しの水蒸気吸う奴ですね。甘めのメンソールを調子に乗って吸っていたら部屋が甘くなりました。困ったものです。

 

・意外と思い出せることが無かった

別に僕の人生の密度が低いわけではないと考えています。ですが、日々生きていく上で一年後にまで鮮明に記憶が残るほどの出来事というのは、思っているよりも少ないのだなと実感しました。