ヘルログ

死と地獄の大君、ヘルデスタイクーンについてもっと詳しくなるためのブログです。

魔法について

魔法は便利なものだと言われています。

実際、あれば便利だと思います。創作の中に登場する、リスクよりもリターンの方が大きく設定されているような類であれば、の話ですが。法が魔法を否定している以上、何をやっても罪に問われないという点で、リターンが破格と言えるかもしれません。

さて、魔法の便利なところについて(あくまで創作の中の事象について)少し考察してみました。

考えられることとして、魔法はリソースを使いません。

勿論、魔法は魔力を使う、魔法文字を使う、魔法陣を使う、そもそも魔法には何らかの代償が伴っている、という話もあるかもしれません。その通りです。仮に魔力と言うものが存在したとして、炎を出すのに使う魔力がその人の生涯を終えてしまうほどの量だったとすれば、そもそも魔法は便利なものではなくなります。あるいは最後の切り札として使われることでしょう。ですので、ここではあくまで一般的、普遍的な魔法について考えることにしたいのです。

炎を出すにしても火種や燃焼物を用いる必要がない、水を、氷を、雷を……と、魔法はあらゆる現象に対して発生条件を担保してやる必要が無いのです。根抵当権です。よくわかりませんが。

分からなくなっていたので、仮に魔力、魔法文字、魔法陣を使う魔法使いの戦いを仮定してみましょう。

魔法使いは戦いに臨みます。仮に剣士が相手だとしましょう。剣士は日々の鍛錬として肉体を鍛え、技を磨き、剣の手入れをします。メンテナンスには費用がかかることでしょう。そうやって準備した剣を携え、剣士は決戦の地へとやってきました。

魔法使いはどうでしょうか。魔法を覚えるところから始まるかもしれません。魔法の制御を覚え、精神力を磨き、杖の手入れくらいするかもしれません。メンテナンスには費用がかかることでしょう。そうやって準備した杖を携え、魔法使いは決戦の地へとやってきました。

この勝敗にはその人の価値観が反映されることと思いまが、今回の場合は至ってシンプルに、僕の判断で魔法使いが勝利するとします。では、戦いの中身を見ていきましょう。

剣士は練達ではありますが、剣士にできることは剣で相手を斬りつける、あるいは突き刺す、この2つになります。一方で、魔法使いは魔法が使えるので、炎を出したり、風を巻き起こしたり、もしかすると瞬間移動で剣士を上空3000メートルまで飛ばしてしまうかもしれません。魔法使いは魔法が使えるので、魔法が使えない人よりは多彩な事ができます。一つ目、手札の利点です。

剣士が炎を出そうとすれば、炎を出す準備が必要となります。松明を持つ、場に油を敷いておく、あるいは火矢で援護してくれる仲間を伏せておくことだって出来るかもしれません。何にせよ、剣士が物理法則に従って炎を出すには、物理法則に従った準備が必要です。対する魔法使いは、魔法使いなので、魔法で炎を出す。以上。これで終わりになります。二つ目、労力の利点です。

労力の利点を乗り越えて炎を出しに来た剣士が居たとしても、火炎放射器を手にしていたのでは「今から炎を出すぞ!」とすぐに分かってしまいます。即ち、手が読まれてしまうのです。勿論、そうやって相手を油断ないし身構えさせ、他に用意した切り札で敵を倒すというのは立派な戦術です。しかし、魔法使いだって同じことができます。魔法が使えないふりをして、いざという時魔法を使って相手を倒せばいいのです。三つ目、実際には一つ目と同質ですが、これは切り札の利点とでも呼んでおきましょう。あまりいい表現が見つかりませんでした。修正するかもしれません。

 

書いているうちの段々わからなくなってきたのでまとめます。まとめと上の文章の間に矛盾を感じた場合、まとめが正しいものと思ってください。

手札の利点、相手よりもやれる動作が多いこと。

労力の利点、動作にかかるリソースが相手よりも少ないこと。

切り札の利点、出来る動作の数が相手には分からないため、隠し玉を用意しやすいこと。

相手よりもできる事が多く、それを相手に悟らさせず、しかも相手よりも多くの選択肢を持つ。難しい対応を相手に一方的に押し付ける事ができる。魔法が便利な原因は、このあたりなのかと思います。

勿論、今回は惜しくも負けてしまいましたが、剣士だって勝ち目がないわけではありません。接近戦になれば、魔法使いは杖を振るよりも先に腕を切り落とされることになるでしょう。首かもしれません。ですが、対応の難しさという点では、魔法使いのほうに軍配があがると思います。

長々と書いてきました。本来ならばこれはこの結論から魔法をお金に、魔法使いをお金持ちに置き換えて、お金はないよりもあったほうが色々なことができるからいいよね、無くても幸せっていう人もいるけどあるに越したことはないんじゃない?という雑な論理展開をする予定でしたが、剣士が随分と頑張ってくれたお陰で剣士に対応する語が見つからなくなったので比喩表現に使うことが難しくなったため、魔法、サイコー!という話で終わります。

ヘルデスタイクーンと言う名前について

明らかに狂った動機なのですが、この名前はぶるぐを荒らすために作られた名前であり、このアカウントはぶるぐを荒らすために作られた人格です。

ですが、名前は大事です。たとえそれがどんな理由で生み出されたものであっても、名前に注ぐ熱量をケチることは僕の頭の中には存在しない選択肢でした。

ヘルデスタイクーン。名前は大きく分けると三つです。ヘル+デス+タイクーン。綴りは……ブログのURLを見ていただければ分かるでしょう。

ヘル。地獄です。デス。死です。タイクーン。大君です。以上。意味に関してはこれで十分です。

意味よりも大事なものがあるとは言いませんが、語感は大事です。日本人は言葉の音を大事にしてきました。よってここで僕がぶるぐを荒らすために使う名前を考案するに際し、音を大事にしても誰も何も文句は言わないはずです。

似た意味の言葉はたくさんあります。デッド。ショーグン。ジェネラル。彼らは組み合わせた際、語感がイマイチでした。

ヘルデスタイクーン。何となく声に出して読みたくなりませんか?

やるべきことが大量にある状況の解決

タイトルの通りですが、最終的には二つの選択肢しか無いと思います。

即ち、上から一つずつ潰すこと。あるいは、諦めてほったらかしにすることです。

 

前者を考えてみましょう。

まず間違いなく正解で、この案は正しいことフォルダ以外に分類することが出来ないでしょう。日めくりカレンダーは一枚ずつめくっていくものです。「やるべきこと」もまた一つずつ潰していけば、最後に来るのは必ず大晦日です。

この案には致命的な欠点があります。正しいことです。口論の際に人間が一番怒りを覚える反論が何か知っていますか。正論です。正しいことをはいそうですか、とすぐにそのまま受け入れることはとても難しいことです。僕も嫌いです。人に正論を浴びせるのは好きですが。人間は感情の生き物だからです。人間の感情を消し去る技術は未だ発明されていないことになっています。

 

後者を考えてみましょう。

まず間違いなく間違いです。この案は正しくないことフォルダに入れられるべきでしょう。日めくりカレンダーは放置するものではありません。めくって下さい。よろしくお願いします。

この案にも致命的な欠点があり、言葉にする必要も無いものとは思いますが、あえて書き記すとすれば、当然ながら「やるべきこと」は減りません。減らないどころか増えていくことでしょう。こうして人類は日めくりカレンダーの海に溺れて死ぬのです。

 

折衷案があります。

何事も1か0かで判断することは良くないことです。我々はコンピューターではないので、全てをはい/いいえで考える必要がありません。間を取りましょう。

この場合の折衷案は、日めくりカレンダーを好きな日付からめくっていくことに似ています。駄菓子屋によく吊るしてあった、束ねられた当てくじのようなものです。調べてみたら、今はキャラクターシールであることが多いみたいです。

人間は正しくないことを選びがちです。正しくないながらも、人間は正しさを好む生き物だと思います。そういう時にこの案は最も適切、最適です。とりあえず気乗りするものからやっていくし、気乗りしないものはそのまま放置して新たな「やるべきこと」と天秤にかけ、気乗りした方を潰していけば良いのです。これを繰り返していけば、カレンダーの海に追いつかれて溺れ死ぬこともありません。何となく逃げることが出来ます。

 

三つありましたが、最終的には二つです。やるか、やらないか。人間もコンピューターも、根っこの仕組みは同じです。

禁書

禁書というものがあります。

別に焚書しようという話ではありません。原義のものとは違って、ここで言う禁書には権威によって流通を禁じられた書物のことではなく、あくまで僕にとっての禁書と言う概念に過ぎませんが、とにかく禁書というものが僕の中にはあります。

要は禁書とは「読んではいけないとされるもの」です。誰かが「いけないとする」とした本が禁書であるならば、別に僕が禁書を勝手に指定してもそれは禁書と呼んでいいでしょう。いいことにします。

それはからくりサーカスであったり、時としてニューロマンサーであったり、または別の何かであったりします。

要は読んではいけない本なのです。何故読んではいけないか、何故禁書に指定するのか。理由は簡単で、読んでしまうからです。

読んでしまう本、別に本くらい好きに読めばいいじゃないか、そういう意見も当然あるでしょう。別に禁書のことを嫌っていて、読みたくないというわけではありません。禁書の恐ろしいところは、読んでしまう、それがいつどんな時でも、というところにあるのです。

部屋の片づけをしているときに写真アルバムを見つけてしまい、時間を忘れて眺めてしまった。あるいは、テスト勉強中に部屋の掃除をしてしまい時間がなくなってしまった。そういった経験が誰にでもあると思います。自分で決めたはずの優先度を変更する何らかの力が働いているのです。

要は一度読み始めると止まらなくなり、結果ある程度の時間拘束されてしまうほどに魅力のある本のことを禁書と読んでいるだけなのです。面白さこそ、何らかの力の最たるものです。読みたい時に読むのは良いとして、ふとめくってみたら最後、今読み進めている別の本の優先度を低下させ、禁書が上位に割り込んでくる。これでは新しい本はたまっていく一方ですね。

一度読んだことがあるどころか、禁書は何度も読み返しても面白い本です。何度だって読みます。しかし、読んだことがある本を読むことと、読んだことの無い本を新たに読むことを比べた場合、単純な効率の面で言えば、後者に比べ前者は時間を無駄にしていることになります。

別に同じ本を何度も読み返すことが嫌いなわけではありません。面白ければ何度でも読みます。手の届きやすい場所に配置している本は、何度も読んだ本ばかりです。だからこそ何かの拍子に手にとってしまいますし、読み返してもしまう。

禁書は不本意に失わせる力が極端に高い、極めて危険な本なので、僕はこれを禁書と呼んで恐れているのですが、手の届きやすい場所にあるので、未だ何らかの力に打ち克ったことはありません。

ブログを書くこと

こんなことをやっている場合ではないのです。

ブログを書くのに必要な時間は人によって、あるいは使用しているツールによって大きく変わってくると思いますが、結論から言えばそれは大きな違いではありません。

結論から言えばと言いました。結論を言いましょう。

ブログを書いている間はブログを書くことしか出来ないのです。

何のためにブログを書くのか。日記代わりの人も居れば、アフィリエイト目的の人も居るでしょうし、私には想像もつかないような理由で書いている人が居るかもしれません。誰かを不快にするためだけに毎日一定の時間と労力を消耗する人が居てもおかしくは無いのです。

私の場合は違います。私の場合、何かをやっていることを感じるために書いているに過ぎません。

ブログを書いている間は安心できるのです。他にやらなければならないこと、やりたいと思いつつも全然出来ていないこと、やるやると言い続けてそのままになっていること、そういった後ろめたさを、ブログを書くという一見前向きな行為がある程度打ち消してくれます。ブログを書くのに労力を使った、だから今日は他のことはしなかった。

自分を救うためにブログを書くことは、果たして不健全なことでしょうか。

こんなことをやっている場合ではないのですが。

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ヘルデスタイクーンです。

このブログは私ヘルデスタイクーンの日々のよしなしごと、趣味、そして死と地獄の大君としての毎日など、色々なことを書き綴れたらいいな、と思っています。

三日坊主にならないこと、生と天国の将軍ヘヴンリヴィングショーグンに目をつけられないこと、などを目標にしています。