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死と地獄の大君、ヘルデスタイクーンについてもっと詳しくなるためのブログです。

大人ではなかったこと

大人というのは、怒りません。大人というのは、泣きません。イメージの文脈として語られる大人という評価は、大抵の場合感情を極度なまでに抑圧することに長けた存在です。世間ではそんな大人を誉めそやします。

何かあっても穏便に済まそうとする。欲はなく、決して怒らない。そういうものに私はなりたいと言った人も居ますが、私はそうではないと思っていました。思っていましたというのは、今この瞬間思いついたわけではなく、結構前から思い続けてきていたということです。

何故感情をあらわにしてはならないのか?人間が時として合理より非合理を選択する感情の生き物であることは各界の専門家たちがその可能性を広く認めています。損得の問題よりも誇りを取る者のなんと素晴らしいことか。フィクションの中の人気キャラクターは、えてしてそういった非合理的判断を下せる存在である事が多い(主観)と思います。残酷だけど理性的な理屈をうるせえー!!と跳ね除ける主人公とかはその最たるものですね。

フィクションなのだから許されるというのは確かにあります。しかし、現実世界を生きる中は、大人である事は己を殺すことと表裏一体でもあるのです。大人が大人の態度で臨まなければならない相手とは、大抵の場合同じ大人であるからです。片一方の大人が感情をあらわにし、理屈を無視するのに対し、もう片方の大人は己の感情を押し殺して対応しなければなりません。

明らかに不平等です。同じ大人なのであれば、同じように大人に振舞う必要があると思います。どちらか片方が大人の対応をする場合、どうしても貧乏くじを引くことになるのはそちらの側になってしまうからです。誰にだって大人として振舞わなくて良い権利はあるし、その回数に上限が定められているわけでもありません。見苦しいとかそういった外野からの意見はこの際考えないものとします。そこまで考える事が出来る人間の多くは大人なので、大人ではない態度をとらないからです。大人である事は世間体を気にするということでもあります。

例えば普段は理性的で温厚、いわゆる社会的な評価として大人な友人がいるとします。例えばその友人が、時折感情をあらわにしているのを見ると、安心します。死と地獄の大君である私のように、破壊と暴力の化身の如く振舞っている姿に、共感を覚えます。ああ、この人は普段は耐えているだけなんだ。心の底から、絶対善の聖人君子ではなかったのだ。同じ人間なのだ、と思えるからです。

 怒りの沸点が似ている相手とは仲良く出来ます。同じものを憎んでいるがゆえ、自らの嫌う存在のような振る舞いをしないからです。虫が嫌いな同士であれば、相手に虫の話をすることはありません。いい関係性だと思います。例え冗談であっても、怒る人は人間的に魅力的だと思います。

例えどんなに大人でも、人間なのだから感情があって欲しいと思います。それと同時に、どんなに人間だとしても、相手に大人を押し付けて感情だけで生きるのはやめて欲しいと思います。すべての人が、適度に大人になって欲しいと思います。